VAMOS バモス
VAMOS×PORTUGAL

さぁ大航海時代の幕開け、
ポルトガルの歴史にふれる旅

01繁栄を築いた大航海時代

この海はどこに繋がっているのだろうか。
今を生きる私たちは、もはやそんな疑問は抱きません。知っているからです。
知らなかったとしても、瞬時に調べ、解決できる手段を持っています。
時は15世紀、今からおよそ600年前。そんなテクノロジーとは無縁の時代。
ユーラシア大陸の最西端から次々に大西洋を出発した冒険家の心にあるのは「この海はどこに繋がっているのだろうか。」でした。

当時、アジア地域との貿易はオスマン帝国を始めとしたイスラム商人によって独占されており、ヨーロッパ諸国にとって、アジア地域と直接の取り引きをすることは困難な状況でした。
アジアから遠く離れ、ユーラシア大陸の最西端に位置していたポルトガルが大海原の先に未来を求めたのは必然だったのでしょう。

1492年、コロンブスが率いたスペインの船団が大西洋を横断してアメリカ大陸に到達すると、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団が喜望峰を経由してインドへと辿り着きました。ついにオスマン帝国を介さずにアジアと直接取り引きができる、海の道を切り拓いたのです。
以降、胡椒をはじめとした香辛料や織物、宝石といったアジア固有品の取り引きは、ポルトガルに巨万の富をもたらし、栄華の一時代を築いたのです。

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02探求心が強いエンリケ航海王子の功績

もちろん、栄華のすべてが冒険者・航海者たちの功績によるものではありません。
国として、貿易網を広げるんだ、未知の世界を探求するんだ、そういう強い意志をもったリーダーの存在がそこにはありました。
エンリケ航海王子がその人です。
大航海時代が間もなく幕を開けようとする15世紀前半、王子として、西アフリカ沿岸地域の開拓に力を注ぎます。
モロッコを皮切りに少しずつ南に到達地を伸ばすにつれ、「このアフリカ大陸の南端を超えた先にインドがあるのでは」という可能性を見出すのです。
航海技術や造船技術はもちろん、地図や天文学といった分野にも幅広く予算や人材を投じ、来る大航海時代への礎を築いたエンリケ航海王子は、その幕開けを前に世を去りましたが、あの華やかな時代の立役者として、今も多くの国民に愛され続けているのです。

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03日本とポルトガルは室町時代からの関係

ポルトガル船がアジアの東端である日本に到達したのはインド到達のおよそ50年後のことでした。
もともとポルトガルの交易網の拡大は貿易取引以外にも、キリスト教の布教も重大な目的のひとつだったのです。1543年、種子島へ上陸し鉄砲の製造技術を伝えると、その6年後の1549年、イエズス会宣教師フランシスコ=ザビエルが訪れ、南蛮貿易とよばれる日本とポルトガルの交流が本格的に始まるのです。
織田信長や豊臣秀吉をはじめとした諸大名にも広く受けれられたポルトガルの文化は、またたく間に日本に浸透し、ボタン、タバコ、てんぷら、こんぺいとうといったポルトガル語が転じて日本語になった言葉も数多く残されるほどに。
また、屏風を意味するポルトガル語biomboや、刀を意味するcatanaなど、日本語が転じてポルトガル語になった言葉も少なくなく、当時から双方の交流が盛んだったことが伺いしれます。

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04大航海時代が遺した歴史的建造物

大航海時代から600年経った今でもなお、ポルトガルの街のそこかしこで往時の栄華を現代に伝えてくれています。
まさにこの場所から多くの船が大航海に旅立ったであろう、テージョ川の河口にはこの時代の立役者たちがずらりと並ぶ巨大な像がそびえ立っています。エンリケ航海王子を先頭にヴァスコ・ダ・ガマやマゼランといった偉人が遙かなる大海を睥睨するこの像は「発見のモニュメント」とよばれ、世界中の観光客が訪れ、往時の冒険心に触れるのです。
またインドから胡椒を持ち帰り、空前の栄華をポルトガルにもたらしたヴァスコ・ダ・ガマの功績を讃えて造られたのが「ジェロニモス修道院」。過剰ともいえるほどの装飾が施されたマヌエル様式の美しい建物は、彼の成し遂げたことの偉大さを、改めて今を生きる私たちに語り伝えてくれます。
そのほか、数多くの建物や像が今も残されていますが、遠く離れた日本にさえ多大な文化的影響を残した大航海時代。
世界各国に散らばる文化交流そのものが、大航海時代の功績なのでしょう。

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