Story
ブルガリア北部の町ルセから南へ約20km。ルセンスキ・ロム川が刻んだ緑深い渓谷の断崖に、岩を穿ってつくられた教会や僧房が点在しています。始まりは13世紀。アトス山で長年修行を積んだ修道士ヨアキムが故郷ブルガリアへ戻り、弟子とともにこの岩壁に小さな教会を掘り、修道院を開いたのでした。
祈りと修行に明け暮れる彼の評判は、やがて都にまで届きます。ツァーリ(皇帝)自らが訪れ、多くの黄金を寄進したと伝わります。その黄金で新たな教会が掘られ、最盛期には渓谷沿いに40ほどの教会や300ほどの僧房が連なりました。しかし王国がオスマン帝国の支配下に入ると、修道院は後ろ盾を失います。僧房をつなぐ木の階段は朽ち、岩の教会から人影が消え、やがて廃墟となり忘れ去られていきました。
修道院の中心として栄えた聖母教会は、神聖な美しさが残る内部を見学できます。石段を上った先の堂内は、壁から天井まで14世紀のフレスコ画で覆われています。エルサレム入城、最後の晩餐、そしてユダの最期。キリストの受難を描いた場面では、人物の身振りや姿勢に驚きや悲しみがにじみます。型にはまったビザンツ美術から一歩踏み出した表現は、パレオロゴス朝美術の優れた作例として知られています。
聖母教会には、寄進者であるツァーリ、イヴァン・アレクサンダルと王妃テオドラの肖像も残されています。王国が滅び、修道院が時の流れに埋もれてもなお、王と修道士たちが託した祈りは、この岩の中で幾世紀もの時を越えてきたのです。
祈りと修行に明け暮れる彼の評判は、やがて都にまで届きます。ツァーリ(皇帝)自らが訪れ、多くの黄金を寄進したと伝わります。その黄金で新たな教会が掘られ、最盛期には渓谷沿いに40ほどの教会や300ほどの僧房が連なりました。しかし王国がオスマン帝国の支配下に入ると、修道院は後ろ盾を失います。僧房をつなぐ木の階段は朽ち、岩の教会から人影が消え、やがて廃墟となり忘れ去られていきました。
修道院の中心として栄えた聖母教会は、神聖な美しさが残る内部を見学できます。石段を上った先の堂内は、壁から天井まで14世紀のフレスコ画で覆われています。エルサレム入城、最後の晩餐、そしてユダの最期。キリストの受難を描いた場面では、人物の身振りや姿勢に驚きや悲しみがにじみます。型にはまったビザンツ美術から一歩踏み出した表現は、パレオロゴス朝美術の優れた作例として知られています。
聖母教会には、寄進者であるツァーリ、イヴァン・アレクサンダルと王妃テオドラの肖像も残されています。王国が滅び、修道院が時の流れに埋もれてもなお、王と修道士たちが託した祈りは、この岩の中で幾世紀もの時を越えてきたのです。

